スカベンジャーの標本部屋

本業は看護師ですが、趣味で動物骨格標本を作成しています。

エコも濁ればエゴになる

 気が付いたら今年ももう半月が過ぎていましたね。

 肩、腰、膝の痛みがひどくて最近は骨作業ができなかったので、ネタがなくブログの更新も滞っていました。

 そこで今回は最近のニュースで話題になっている淀川のクジラについて、個人的な考えを語っていきます。

 

 まず、クジラに限らず本来の生息域を離れて人目に付く場所に珍しい生物が姿を現すとニュースになりますが、得てして哺乳類や鳥類だと「可愛い」「珍しい」と言って見物人が集まり、「〇〇ちゃん」と名付けてマスコット扱いされるのに、爬虫類や無脊椎動物だと「キモい」「危険」と厄介者扱いされますよね。そしてなぜか魚類は群れるとニュースになり、両生類はほとんど話題にもならない。世間一般にとってこれらの生物がどのような見方をされているのかがわかりますが、こうして世間が盛り上がる現象をいつも複雑な心境で見ています。

 

 さて、今回クジラの遺体の処理についてTwitterで「標本にするのは人間のエゴではないか」というような主旨のコメントがありましたが、こうした意見の中には標本を残すことの意義を誤解している場合があると感じます。

 標本を残す意義については以前から多くの研究者が仰っているので私が語ることではありませんが、標本は社会や自然に還元できる情報を1つでも多く後世に残すための資料となります。つまり行動原理が自身の個人的な興味や探求心に則ったものだったとしても、公共の益に資することを最終目的とした研究者らの行為はエゴと逆のものだと思います。

 むしろ自然を愛する者を自称し、「生物の生きた証を残したい」とかそれらしい言葉を並べるくせに作った標本や得られた情報を共有せずに一人で抱え込んでいる私こそがエゴイストでしょう。叩かれても仕方ない。

 

 「自然に還してあげて」という意見もありましたね。自然をあるがままにするべきという考え方は否定しませんが、ヒトの手によって造られた環境に野生動物が入り込んだ場合、そこを生活圏とする人間に少なからず影響を及ぼすことになるため、人間の介入は不可欠となります。

 大阪湾について簡単に調べてみただけでも、大小様々な湾港が並び、工業、漁業、商業、住居、レジャーなど多くの人間の生活・活動に関係する環境であることがわかります。すると、クジラの遺体が湾内に放置された場合、浮遊する遺体そのものや分離した脂肪や体組織による船舶の航行障害や漁業へのダメージ、湾内の施設や水質の汚染、腐敗臭等による住民のQOL低下などが考えられます。また、二次的には遺体に集まるサメなどの大型肉食動物がさらなる漁業や航行、レジャーへの影響を及ぼす可能性もあります。

 遺体を沖に曳航するにしても引き受けてくれる業者を手配し、費用も含めた計画を立て、他の地域に漂着したり遺体と船舶が接触したりしないように確実に沈める処理をしなければなりません。その作業も安全とは限らないので、引き受けてくれる人達への配慮も必要になるでしょう。

 

 もちろん標本を作るにも費用はかかりますし、重機を扱う業者等の手配も必要になります。また、標本を作ることは自然界の資源を人間界に持ち去るという行為でもあり、本来ならその遺体を食べて生きられたであろう他の生物たちの不利益になるという側面もあるので、標本にするデメリットもあるとは言えます。但し、先に述べたように少なくともお金と時間をかけた分の見返りは未来に残されます。

 

 これらを考慮したうえで研究者も行政も対処法を検討していると思いますし、費用と実行可能性を踏まえて最終的な結論が出されます。

 と文章を考えている間に『沖に沈める方針』というニュースが流れてきました。標本にはできないのかぁ、残念…

 

 残念でしたが、行政がそう判断したのなら仕方ありません。沈めた場所が研究機関に共有されるなら鯨骨生物群集の研究はできそうなので、それも無駄にはならないと信じます。

 

 長々と語ってしまいましたが、結局何が言いたいのかというと。

 こうした問題に関して人それぞれ立ち場も考え方も違うので様々な意見が出るのは当たり前です。どんな意見にも意味はあり、その人の気持ちもわからなくはありません。しかし、クジラの遺体が存在することによる影響を受ける人と処理を決断・指示・実行したり、費用を捻出したりする人以外が、その対応に関して批判するのは好ましくないと思うのです。

 理解・納得できないのであれば『質問』すればいいし、自分の考えを伝えたいのなら『意見』を述べれば参考にされることもあるでしょう。ところが『批判』はそのどちらでもなく、安全な場所にいて金も手も案も出さない無関係者が当事者の邪魔をしているだけです。今回のクジラの件に限らず、様々な野生動物との問題に関わる方々に私は敬意を払いたいですし、多くの人がそうあって欲しいと願います。

 

 最後に、「動物が可哀そう」と言う人達へ。

「動物は物語を生きていない。だから、生死に勝手なドラマを読み込んで憐れんだり、悲しんだり、ましてや罪悪感を覚えたりするのは人間のエゴでしかない」

出典:施川ユウキ『鬱ごはん』(第156話 葉っぱをくれた猫)より

 

 それでは、また。